ムラの未来は「未来を担っていく人々」に託してほしい。
会ったこともないのにこんなことを言うのはフェアじゃないとは思うのだけれど、藤本智士という人は、正直いうと好きになれない。
たぶんリアルでも友達になれないんじゃないかな、知らんけど。
でも、時々ぽんっと膝をたたきたくなるようなことをおっしゃるので、尊敬はしている。だから嫌いになれない(でもやっぱり好きではない)。
で、その藤本智士氏がまたおっしゃった。
ほんこれ。
神社の神職も総代も、ほんこれ。
本当に頼れるムラの大人衆にだけ「長老」とか「相談役」とかいう称号を与えたい。
ムラの未来は「未来を担っていく人々」に託してほしい。
長老や相談役には知見のみお授けいただいて、選択は「未来を担っていく人々」に託してほしい。
何度も言うけど
「わしらの息子らは継承できないだろうから我々の代で改革(取り止め)する」
…って、ほんま阿呆か!と、はらわたが煮えくりかえる。
ああ。
僕は夏が嫌い。
僕は子供のころから夏が好きではありません。
だいたい暑いし。
汗をかいて下着がびしょびしょになるし。
日に焼ける体質ではないし。
薄着になるから、やたらと手足が白いのがばれるし。
で、日に焼けたら焼けたで真っ赤っかになるし。
皮が剥けるし。
めんどくさい宿題が出るし。
夏休みでも毎日部活に行かなきゃいけないし。
それでも学生時代は、瞬間風速的にそこそこ夏を楽しんだこともあったけど。
でもやっぱり夏は好きではありません。
今?
夏だ!といって楽しそうな子供たちを見るのが好きです。
今年はコロナ禍で、そんな子供たちを見る機会も少なかったな。
夏のばか!
否、コロナのばか!
暮らしにルーティンを持とう。
皆が皆、ルーティンを持てばいいと思う。
何気ない良い暮らしには、ルーティンがあるのだ、と。
それは、たぶん、何でもいいのだと思うのだけれど、伝統的に続いているルーティンから始めるのが良いと思う。
朝起きたら「おはよう」と挨拶するとか、もうそんな「当たり前」から始めるのが良い。
神主をやっているとルーティンの大切さをじっとりと感じる。
祭という、そのものがルーティンなのだから。
「例祭」という言葉自体、ルーティンであることを示している。
でも「例祭」とか「大祭」とかいう大きな威厳あるある祭が大事であることは、言うを俟たないのだけれど、もっと大事なのは毎日おこなう小さな祭「日供」であると思う。
毎日の小さな、同じことの積み重ね。
強がる必要もなく、弱っちいと卑下する必要もない。
そういうルーティンが日本じゅうの神社や寺で、あるいはたくさんの家庭で、毎日々々、積み重なっている。
暮らしにルーティンを持とう。
たぶん、それがあなたの御守りになる。
御神体とは何か。
神様は目に見えない。
見えないけれど、いる。
「いる」と感じる。
だから、見えないけれども、まるですぐそこにいるかのように神主は奉仕する。
それが神祭りの真髄のひとつなわけだけれども。
神主をしていると「神社の御神体は何ですか」という質問をよく受ける。
逆に問いたい。
「じゃあ、そもそも『御神体』て何だと思ってます?」と。
昔の人々が目に見えぬ神をどのようにして見ることができたのか。
僕にはとんとわからぬ。
思うに昔の人々もわからなかったんじゃないかな。
そこで神様が見えないけれども、すぐそこにいるかのように奉仕するための装置が考案された。
それが「依代(よりしろ)」だ。
いにしえの祭祀では大木や巨石、山、海などの森羅万象に神の御霊が宿るモノとして神聖なものとされてきた。
そう神聖なのだ。
神の御霊が宿るのだから、誰がなんと言おうと神聖なのだ。
そこに異論はない。
え、でもちょっと待って。
大木や巨石に宿る前の神霊は、いったいどこにいたの?
その大木や巨石は神様なの?
祭祀において、いわゆる大木や巨石が御神体でいられるのは「祭祀の間」だけであると僕は思っている。
じゃあ、祭祀の間以外の時間は、その大木や巨石は「ただのモノ」なのかといえば、それも違う。
「神聖なモノ」である。
ただし、御神体ではない。
依代は祭祀の際のひと時、御神体となる。
そこは神様をお招きするための玄関であり、応接間でもある。
「御神体とは、目に見えない神様を祭祀のとき一時的に感じ取るための装置である」。
これが僕の答えたい本当のことなのだが。
しかし、ひどく回りくどくなるし、正直に打ち明けたとて「そーゆー答えが欲しいんじゃないのよ」という顔をされることが多い。
結果、以下のように端折ることが多い。
「あ、大木や巨石などの森羅万象や本殿内に納められている何かですねー」と。
きっと乗り越えてみせる。
コロナの災いのひとつなのかもしれないが家人がイラついている。
子供達と言えば、朝起きたらゲームばかりで、すぐに飽きるし、すぐお腹を空かせる。
そして、たいした用事があるわけでもないのに母を探す。
で、探される子供達の母はイラついている。
ところで、この度のコロナ禍でほんのわずかに良かったことは「おうち時間」が比較的長いために、もう永遠にしないのではないかと思ってしまうほど放置されてきた場所の掃除に着手できたことだろう。
しかし、これすらも災いの種となりうるのがコロナの禍々しいところである。
小規模ながらも断捨離を決行すると「あれどこにある?」が発生しやすい。
子供達の母は、これを極度に嫌う。
そのことをうっかり忘れていた僕は、なかば自嘲気味に、でもおどけるように「まるで宝探しやなあ」と口ずさんだら、さあたいへん。
子供達の母から言葉の鉄槌が下された。
子供達の父は思う。
そんなに?そんなにまくしたてられるほど酷いこと言った?
いや、これは災いだコロナの禍。
もっと言えば、呪いだ。
しかし、災禍や呪いに対処する方法なら、知ってる。
なぜなら僕は神主だから。
神様にどうすればいいのかについての伝統的なやり方なら知ってる。
いや、神主に限らず、むしろ日本人だったら、だいたいの人が知らず知らずに実践しているのだと思う。
と、思っていたら、こんな記事を見た。
これだ。これだよ。
これによって社会道徳と家内安全がまもられているのだ(たぶん)。
我々日本人はコロナに屈しない。
伝統的に尚且つスマートなやり方で、軽やかに、きっと乗り越えてみせる。
頑張ろう。
最後に、日夜このコロナ禍のなかで献身的に従事されている医療関係者の皆様に深く感謝の意を申し上げたい。
そして、こんな僕の戯言を楽しんでいただけた方々に益々の神様の御加護がありますように。
「神社は50年先を見据えて行動すべし」とその人は言った。
「神社は50年先を見据えて行動すべし」とその人は言った。
まだぺーぺーだった(否、今もだけど)僕が神職の資格を得て、すぐに宮司を拝命してしまった当時の総代会長その人である。
聞けば長く地域の議員を勤め、職を辞した当時でも図書館で勉強を怠らない人だったという。
酒を愛し、酒に愛された人柄で、直会はいつも彼の独擅場であったが、実に人間臭く博識な老人を僕は影でいろいろ面白がりながらも尊敬していた。
「神社は50年先を見据えて行動すべし」。
思うに、今このような骨のある人生の先輩が少ないと感じる。
そして、これによって神社の運営は岐路を迎えていると思う。
ある時、ある人が言った。
「もう息子の代では、今のようなかたちで行事に協力出来ないのではないか」
続けて言った。
「だから我々の代で行事を縮小したり簡略にしたりしなければならない」
僕は耳を疑った。
いやいやいやいや。
なに勝手に息子どもの選択の自由を奪ってんだよ。
せめて将来のことは将来を背負って立つ息子どもに選ばせろ。
親が息子どものために将来を選択してやるとは、随分とまあ過保護なこったな!
僕は、これからの時代「老い先少ない人たちに神社の将来を託すのは無理なんじゃないか」と考え始めている。
「50年先を見据える」視野がないのだ。
息子たちの代に訴える「明るい未来志向」を構築しなければならない。
急がないと取り返しがつかなくなる。
これだけ言えたら、もうバッチリ「男」。
ムラ社会という言葉があります。
僕はこの言葉に比定的な意見を持ちません。
むしろ「おらがムラのことはおらたちが守る」という気風を肯定的に捉え、良きものと考えています。
しかしウィキペディアに掲載されているムラ社会に関する解説は一元的でひどい偏見に満ちています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E7%A4%BE%E4%BC%9A
ひどい。ひどすぎる。
善良で明るいムラはなんぼでもあるのだよ。
あなたは闇ばかり見すぎて光に眼が眩んでいるのではないの?と問いたい。
しかし、ムラ社会で暮らしてきて所帯を持ち、ムラの出合い(会議や行事)に出向く機会が増えてハタと気づきました。
なぜムラの出合いには子育て世代が少ないの?
理由は簡単。こういうことです。
https://twitter.com/ma_ru_kin/status/1170344378394533888
若者よ(といってもムラで「若者」は50代までと幅広い)。
勇気を出してもっと大人(オヤジ)衆に意見しよう。
働き盛りを越えた大人衆こそ、もっと地元のために働け。
でもって、真面目にムラの出合いに来ている若者(といってもムラで「若者」は50代までと幅広い)にいちいち口出しすな。
貴方たちは時間ならなんぼでもあるはずだ。けちってないで金も出せ。
我々、若者(といってもムラで「若者」は50代までと幅広い)は、時間も金もない。
日々の生活で手いっぱいだ。
まあ、いろいろ書きましたが、これだけ言えたら、もうバッチリ「男」ですな。